この連載の目次(全8回・完結)
- 01浅草寺の隣に、なぜ浅草神社があるのか
- 02八幡・稲荷・天神は、なぜ全国にあるのかいまここ
- 03京都の歩き方
- 04寺で何をしているのか——坐禅・念仏・密教の儀礼
- 05仏像の見方——如来・菩薩・明王・天部
- 06御朱印の読み方
- 07鎌倉と奈良を、半日ずつ歩く
- 08もう一度、浅草を歩く
近所に「◯◯八幡宮」があり、駅前に「◯◯稲荷」があり、受験の時期には「◯◯天満宮」に人が集まる。土地も時代も違うのに、同じ名前が各地に並んでいる。この名前は、どうやってそこまで届いたのか。
勧請——ある神を、別の土地にも迎える
鍵になるのは勧請(かんじょう)という言葉だ。
ある神社で祀られている神を、別の土地にも迎えて祀ること。このとき、元の神社の神がいなくなるわけではない。神は分けられて、両方にいる、という考え方をとる。こうして迎えた神の名や系統を受け継ぐ社が、各地に生まれた。
神社の由緒書きに「◯年、△△より勧請」と書かれていれば、それは、その社がいつ、どこから神を迎えたかの記録である。
八幡——宇佐から都へ、都から鎌倉へ
八幡は、動いた記録がはっきり残っている神だ。
出発点は、大分県の宇佐神宮である。奈良の大仏を造るとき、この神が力を貸したと伝えられ、早くから国の大きな事業に関わる神とされてきた。
平安時代のはじめ、その神が都の近くへ迎えられる。京都の南、男山の峯に祀られたのが石清水八幡宮だ。男山は、三つの川が合流して淀川になる地点にあり、京と難波を結ぶ交通の要地にあたる。以後この社は、都を守る神として天皇や上皇がくり返し参詣する場所になった。
そこからさらに東へ渡る。平安時代、東北を平定した源氏の武将が、その帰り道に鎌倉へ石清水の神を迎えた。これが鶴岡八幡宮の始まりである。のちに源頼朝が鎌倉に入ると、この社を現在の場所へ移した。鎌倉というまちは、この神社を中心に組み立てられている。
宇佐から男山へ、男山から鎌倉へ。運んだのは、そのときどきの朝廷であり、武士だった。八幡が国や武家との結びつきを強めていったのは、この移動の道筋と重なっている。
稲荷——気づけば、そのへんにある
稲荷は、街を歩いていると不意に出てくる。ビルの屋上、商店街の路地、大きな神社の境内の隅。朱い鳥居が小さく連なっていて、その奥に狐の像が座っている。
総本宮は京都市の伏見稲荷大社だ。ここも、始まりは社殿ではなく山にある。社の背後に稲荷山があり、稲荷信仰の原点はこの山にあるとされる。鳥居が延々と連なる有名な参道は、この山へ登っていく道だ。
祀られている神について、同社は古くから「衣食住ノ太祖」と称えてきたと記している。五穀豊穣に始まり、商売繁盛や家内安全など、衣食住と商いに関わる信仰が重なってきた。
いまも、農村の田畑のそばにも、都市のただ中にも、稲荷社が見つかる。
天神——菅原道真という、一人の人物
天神だけは、成り立ちが違う。祀られているのが、神話の神ではなく、実在した一人の人物だからだ。
平安時代の学者で政治家の、菅原道真である。学問で身を立て、朝廷の高い位まで昇った。ところが政敵の策謀で失脚し、九州の大宰府へ追われる。そしてその地で亡くなった。
その後、都では災いが続いた。人々はそれを、無念のうちに死んだ道真のしわざだと考える。恐れをしずめるために、道真は神として祀られた。 学問の神として親しまれるようになるのは、そのあとのことである。
中心になったのは、道真が葬られた場所に築かれた太宰府天満宮と、都の北西に創建された京都の北野天満宮だ。受験シーズンに天満宮へ人が集まるのは、この経緯の先にあることだ。
神社系統図鑑——8つの名の背景を読む
八幡・稲荷・天神のほかにも、全国へ広がった名前がある。神明、住吉、諏訪、祇園、恵比寿。それぞれに、始まった場所と、広がった事情がある。
図鑑では8つの名について、その名が指すもの、信仰が成立し展開した歴史、代表的な社と地域、現地で確認できる建物や祭礼、そして同じ名でも異なる点をまとめている。