この連載の目次(全8回・完結)
- 01浅草寺の隣に、なぜ浅草神社があるのか
- 02八幡・稲荷・天神は、なぜ全国にあるのか
- 03京都の歩き方
- 04寺で何をしているのか——坐禅・念仏・密教の儀礼
- 05仏像の見方——如来・菩薩・明王・天部
- 06御朱印の読み方
- 07鎌倉と奈良を、半日ずつ歩くいまここ
- 08もう一度、浅草を歩く
京都のほかにも、代表的な寺社を続けてたどれる街がある。鎌倉と奈良だ。それぞれ成り立ちも街のつくりも違うが、どちらも主な行き先が近い範囲にまとまっている。ここでは二つの街のモデルコースをたどる。
鎌倉——参道が、街の軸になっている
鎌倉駅を出て東へ少し歩くと、南北に走る大通りに出る。これが若宮大路で、駅はその西側にある。この大路を北へ向かうと、鶴岡八幡宮に着く。歩いて10分ほどである。
この社は第2回に出てきた。京都の石清水から八幡の神を迎えて始まり、源頼朝が鎌倉に入ったときに現在の場所へ移された社だ。鎌倉市の説明によれば、頼朝は社から海まで一直線にのびる参道をつくり、これが鎌倉の都市計画の第一歩といわれる。
いまも鎌倉の地図を見ると、この大路が南北にまっすぐ走っているのが分かる。神社を起点に、街の骨格が引かれている。
参道の途中には段葛(だんかずら)という、車道より一段高く造られた歩道が続く。両側を桜が並ぶ。鎌倉市の説明では、段葛は頼朝が妻・政子の安産を祈願して築かせたものとされ、いまの姿は後の改修を経て大正時代におおむねできたものだという。歩くときに思い出すと、桜並木の由来まで一続きになる。
八幡宮へは、この大路を歩く道と、一本隣の小町通りを通る道がある。小町通りは店が並ぶにぎやかな通りで、同じ距離を歩いても印象がまったく違う。

八幡宮を見たら、駅へ戻って江ノ電に乗る。三つ目の長谷駅で降りて歩くと、鎌倉大仏がある。
この大仏で目を引くのは、屋根がないことである。空の下に、そのまま座っている。もともとは大仏を覆う建物があったが、災害で失われ、以後は再建されないまま今日に至っている。建物がないから屋外にあるのであって、初めから野外に造られたわけではない。
もう一つ、この大仏は銅を鋳て継ぎ合わせた像なので、内部が空洞になっている。胎内を拝観できる形になっており、外側の表面と、内側から見た鋳造の継ぎ目の両方を見られる。実際の胎内拝観の可否は、高徳院の公式案内で確認したい。

奈良——公園の中に、寺と神社がある
奈良は、行き先が公園の中にまとまっている。奈良公園に入ると、その中に東大寺と春日大社の両方がある。
公園へは、近鉄奈良駅から歩いて向かうのがいちばん近い。JR奈良駅は公園から少し離れているので、バスを使うか、20分ほど歩くことになる。
公園を歩いていると、鹿がいる。野生の鹿でありながら、春日大社の神の使いとして保護されてきた動物である。奈良の鹿が街なかを歩いているのは、この歴史による。
公園の北側にあるのが東大寺。参道を進むと、まず南大門という大きな門をくぐる。この門の左右には、見上げるほどの仁王の像が立っている。第5回で見た天部——仏教を守る側の像である。門で守り、その奥に本尊を置くという配置が、ここでははっきり分かる。
門を抜けた先が大仏殿で、奈良の大仏はこの建物の中に座っている。鎌倉と違って、屋根がある。木造の建物としては世界でも有数の大きさとされ、実際に前に立つと、屋根の高さで距離感がつかめなくなる。

公園の東側へ進むと春日大社がある。朱塗りの建物が続き、その軒下に金属製の灯籠がびっしりと吊るされている。参道の両脇には石灯籠が並ぶ。灯籠は人々が奉納してきたもので、数が積み重なって、いまの景色になった。

東大寺と春日大社は、公園の中を歩いてつながる。乗り物を使わずに、寺と神社を続けて見られるのが奈良の歩きやすさである。
二つの大仏は、別の仏である
最後に、鎌倉と奈良の大仏を並べておく。
「大仏」は仏の名前ではない。 ただ大きな仏像、という意味の呼び名である。だから中身は別々だ。
鎌倉の大仏は阿弥陀如来。 第4回で見た、念仏を大切にする流れの中心にいる仏である。奈良の大仏は盧舎那仏(るしゃなぶつ)。 東大寺は、仏教が国を支える学問として入ってきた時代の寺で、この仏はその世界観の中心に置かれる。
どちらも第5回でいう如来にあたるが、祀られている仏も、造られた事情も違う。 そして座っている場所も違う——鎌倉は空の下、奈良は建物の中。同じ言葉で呼ばれている二体を、別のものとして見られるようになるのが、この二つの街を歩く意味である。
大きな寺社では、修理で建物が覆われていることがある。 素屋根という仮設の建物ですっぽり包まれ、外観がまったく見えなくなる。数年単位で続くこともあるので、目当ての建物があるなら、その寺社の公式案内で現況を確かめておくとよい。
奈良の鹿は野生動物である。 神の使いとされてきた歴史はあるが、人に慣れているだけで飼われているわけではない。掲示されている注意に従うのが安全である。