この連載の目次(全8回・完結)
- 01競馬は、馬券を買わなくても面白い
- 02日本ダービーと有馬記念は、何が違うのか
- 03逃げる馬と、追いかける馬
- 04血統の話で、なぜ父の名前が出るのか
- 05一頭の馬を、何人が走らせているのかいまここ
- 06東京と中山では、レースの見え方が違う
- 07名前だけでも通じる名馬たち
- 08最終回——2023年ジャパンカップを、最初から最後まで見る
競走馬は、レースの日だけ存在するわけではない。生まれてから走るまでに数年あり、そのあいだに何人もの手を渡っていく。ここでは一頭を選んで、その手をたどる。
キタサンブラックは2012年3月10日生まれ、北海道の門別で生まれたオスの馬である。父は22戦3勝のブラックタイド、母の父はサクラバクシンオー(第4回)。
JRAが最上位に位置づけるGⅠ(ジーワン)のレースを7つ勝った馬だが、関わった人のほとんどが、最初は期待していなかったことが記録に残っている。
牧場は、売り先を決められずにいた
生まれたのはヤナガワ牧場。1967年に、子を産ませるためのメスの馬14頭で開業した牧場で、いまはその馬が40頭台、従業員10名ほど。家族経営の小牧場でも大手でもない、中堅と評される規模である。開いたのは日高で獣医師をしていた人で、その息子、さらにその息子と三代続いている。

キタサンブラック2015年2月22日、東京競馬場。デビュー間もない頃
Photo: Nadaraikon / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0(WebP変換と縮小のみ、トリミングなし。)
牧場は、キタサンブラックをその年に生まれたオスのなかで2番目に評価していた。それでも買い手がつかなかった。母方に活躍した馬がおらず、牧場を訪れる調教師や馬の持ち主に薦めるだけの自信が持てなかったからだと、三代目の梁川正晋は話している。売れないまま、牧場と持ち主の共同名義で走らせることまで考えられていた。
競走馬は、生まれた時点では値段のつかないことがある。キタサンブラックは、そこにいた。
買った人は、半世紀前の縁でこの一頭に会っている
買ったのは(有)大野商事。JRAの公式記事は「歌手の北島三郎氏(名義は(有)大野商事)」と書いている。競走馬は個人や法人が所有し、その所有者を競馬では「馬主(ばぬし)」という。
この縁は古い。半世紀ほど前、芸能事務所・新栄プロダクションの創業者が牧場の経営に乗り出したとき、馬を持ち始めたばかりの北島に声をかけ、二人の名字から一字ずつ取って「北西牧場」と名づけた。その牧場長を務めたのが、ヤナガワ牧場の二代目・梁川正克である。北島とこの牧場の付き合いは、そこから約半世紀続いている。
買った理由として伝わっているのは、親の名前でも体つきでもない。「顔が二枚目。僕とよく似ている」「目も顔も男前で惚れた」。 価格は350万円だった。
すぐに大きなレースを狙う馬とは、見られていなかった
デビュー前、キタサンブラックを管理していた調教師らは、すぐに大きなレースを狙う馬とは見ていなかった。
預けられたのは滋賀県栗東の清水久詞調教師のもと。日々の世話を担当したのは辻田義幸で、2歳のときから引退レースまでキタサンブラックを見ている。
最初の印象を、辻田はこう話している。優しい感じで人懐っこく、幼く、2歳の小さな子供みたいな感じだった。競走馬の性格でもなかったし、体もまだまだ幼かった、と。
そして当時の見立ては、こうだった。3歳の夏くらいには1〜2勝して、未勝利を乗り越えて500万、1000万で走ってくれれば良いのかな。
中央競馬では、勝った数に応じて1勝クラス、2勝クラス、3勝クラスと段階を上がり、その上に、実績のある馬が出るオープンクラスがある。辻田が挙げた数字は当時の呼び方で、途中の段階を指している。GⅠを勝つ馬の話ではない。
餌の食べ方も、がつがつしたものではなかったという。摘まみながら時間をかけて、自分の必要な分は食べている感じ、と辻田は言っている。
5歳の春には、調教の負荷がかなり上がった。普通が馬場を2周半で、そこから全力に近い調教が2本あったりする、普通の馬ではキツいメニューだった、と辻田は振り返る。イライラしているところもあったが乗り越えてくれた、とも。
強い馬を作る過程は、外からは見えない。 見えているのは、レース当日の2分ほどだけである。
乗る人は、途中で替わっている
レースで馬に乗る人を騎手という。キタサンブラックの騎手も、最初から最後まで同じではなかった。3歳のあいだ多く乗っていたのは北村宏司で、菊花賞を勝ったのもこの組み合わせだった。ただし同じ年の日本ダービーでは、18頭のうち14着に終わっている。

キタサンブラック2015年10月25日、京都競馬場の菊花賞。18頭のうち5番目の評価で勝った
Photo: Nadaraikon / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0(WebP変換のみ、トリミングなし。乗っているのは北村宏司で、武豊ではない。)
武豊とのコンビは4歳からである。JRAの公式記事も、4歳時は新たにパートナーとなった武豊騎手を背に、と書いている。

武豊2022年5月29日、東京競馬場。発走前に馬を歩かせる下見所で
Photo: nakashi / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0(WebP変換と縮小のみ。Commons 側で人物部分に切り出された画像を、そのまま縮小して使っている。キタサンブラックに騎乗した日の写真ではない。)
引退レースとなった2017年の有馬記念では、武豊が自ら枠順を引き当てて2番ゲートを取った。どうしても勝ちたい、悔いの残らないようこの馬の走りをさせることだけを考えていた、とJRAの記事は伝えている。ゴールしたあと、騎手は馬に「ありがとう。ご苦労様」と声をかけた。
勝敗を騎手ひとりの手柄や責任にするのは無理がある。かといって、全員の力で勝った、とまとめても何も言ったことにならない。実際に起きたのは、期待していなかった人たちの手を次々に渡りながら、キタサンブラックが20戦12勝したということである。
世話をした人が「次の仕事」と呼んだもの
引退前、辻田はこう話していた。無事に次の仕事——子を残す役目に向かえるように、いまは無事に競走馬生活を終わってくれれば、と。
競走馬にとって、引退は終わりではない。キタサンブラックは北海道安平町の社台スタリオンステーションへ移り、子を残す役目に就いた。第4回で見たとおり、その子からイクイノックスが出ている。
牧場が売り先を決められなかった馬の子が、いまは高額で取引されている。関わった誰ひとりとして、最初から正解を知っていたわけではなかった。