この連載の目次(全6回・完結)
- 01『急に具合が悪くなる』『箱の中の羊』『黒牢城』ほか——名前だけでは分からない新作映画6本
- 02Netflixで話題の映画5本——あらすじと、面白いポイント
- 03宮崎駿、黒澤明、北野武、是枝裕和、濱口竜介、新海誠、山崎貴——それぞれの映画は、何が違う?いまここ
- 04スピルバーグ、キャメロン、タランティーノ、スコセッシ、ノーラン、ヴィルヌーヴ——作風はどう違う?
- 05IMAXとは何か——通常上映、IMAX、Dolby Cinemaは何が違う?
- 06アカデミー賞と三大映画祭——何が違い、誰が選んでいる?
黒澤明の合戦は土砂降りの泥の中で行われ、新海誠の東京は雨上がりの光で輝く。北野武の暴力は一瞬で終わり、濱口竜介の映画では会話が長く続く。同じ「日本映画」でも、監督が違えばここまで違う。名前だけは知っている7人について、その名前を聞いたときにどんな映画を思い浮かべればいいのか——作風が分かるところまで案内する。
| 監督 | 代表作2本 | 作風・特徴 |
|---|---|---|
| 黒澤明 | 羅生門/七人の侍 | 雨・風・群衆で画面を動かし続ける。合戦は複数カメラで一気に撮る |
| 宮崎駿 | もののけ姫/千と千尋 | 手を動かして働く人物と、善悪が簡単には割り切れない世界を描く |
| 北野武 | ソナチネ/HANA-BI | 静かな時間が長く続き、暴力が予告なしの一瞬で差し込まれる |
| 是枝裕和 | 誰も知らない/万引き家族 | 食卓と家事の観察で家族を見せる。説明台詞に頼らない |
| 濱口竜介 | ドライブ・マイ・カー/偶然と想像 | 離れられない場所で会話が続き、途中で別の感情が表に出る |
| 新海誠 | 君の名は。/すずめの戸締まり | コンビニや駅の日常を光で塗り直し、きれいな空の下で喪失を運ぶ |
| 山崎貴 | ALWAYS/ゴジラ-1.0 | もう存在しない風景を、VFXで実在させる |
詳細は各節で。特徴に当てはまらない作品もあり、それも各節で触れる。
黒澤明——雨と泥と群衆で、画面を動かし続ける
まず、いちばん古い人から。黒澤明(1910-1998)の映画では、画面の中で何かがずっと動いている。雨が降り、風が吹き、土埃が舞い、群衆が走る。天候まで演出の道具にする監督で、代表作の入口は『羅生門』(1950)と『七人の侍』(1954)の2本だ。
『羅生門』は、一つの殺人事件を、盗賊・妻・死んだ侍・目撃者がそれぞれ食い違う形で語り直す話である。誰の話も本当らしく、誰の話も疑わしい。その証言を聞く場所が、土砂降りの雨に打たれる羅生門の下だ。屋根を叩く雨の激しさが、そのまま話の不穏さになっている。食い違う証言から真相が定まらないこの構造は、のちに英語圏で「ラショーモン・エフェクト」と呼ばれるようになった。1951年にはヴェネツィア国際映画祭の最高賞・金獅子賞を受賞している。
『七人の侍』は、野武士に襲われる村が七人の侍を雇って戦う3時間27分で、クライマックスの合戦は土砂降りの泥の中で行われる。雨、泥、走る馬、入り乱れる人。この規模の乱戦は一度きりしか撮れないから、黒澤は複数のカメラを同時に回して撮り、あとから最良の瞬間を選んで編集した。望遠レンズで人の塊を圧縮する画面も、ここで確立されている。ハリウッドでは、西部劇『荒野の七人』としてリメイクされた。
ただし、動きの人とだけ覚えると『生きる』(1952)で裏切られる。余命を知った市役所の課長が最後に小さな公園を作る話で、いちばん有名な場面は、雪の夜、完成した公園のブランコに老人が一人で揺れているだけの静かな画面である。動と静の両方に代表作があり、晩年の『乱』(1985)では、動きよりも色彩と長いショットで画面を作る方向へ振れていった。現場は徹底したリハーサルと妥協のなさで知られ、その仕事ぶりは黒澤組の助監督だった小泉堯史ら、後の監督たちに引き継がれている。

宮崎駿——手描きの世界で、人が働いている
東映動画のアニメーターから出発し、盟友・高畑勲とともにスタジオジブリを設立した。宮崎駿の映画をひとことで言うなら、手描きで作り込まれた世界の中で、人が働いている——になる。『もののけ姫』(1997)の舞台タタラ場は鉄を作る工場で、女たちが交代でふいごを踏む。『千と千尋の神隠し』(2001)の湯屋は神々のための巨大な銭湯で、10歳の千尋は名前を取り上げられ、床を磨き、客を取る。物語の形は神隠しでも、画面で起きているのは就労である。
この労働は、美化されていない。タタラ場は山を削って自然と対立する側だが、病者や身売りされた女たちが働く共同体でもあり、率いるエボシは悪役として描かれない。湯屋の経営者・湯婆婆は千尋を働かせる強欲な魔女だが、同時に息子に甘い母親でもある。この2作は、対立の話なのに、敵と味方を簡単には分けない人物配置になっている。宮崎本人は油屋のモデルをスタジオジブリだと明かし、「僕らは仕事場では湯婆婆」と冗談めかしつつ、「労働が神聖なものだとは思いませんけどね」とも語っている。働くことを賛美するのではなく、避けられない営みとして描く構えである。
画面の実在感を支えているのは、手描きの物量だ。物語を進めるためではない動き——ため息、座り直し、食事の手元、隅を横切る小さな生き物——が画面のあちこちに描き込まれていて、この「無駄」が世界に厚みを与えている。『崖の上のポニョ』(2008)では、水の動きを手描きの原画と動画で押し切り、作画枚数は17万枚を超えた。CG全盛期に、線の勢いがそのまま見える画面をあえて物量で作っている。
一方で、この見方がそのまま通用しない作品もある。『となりのトトロ』(1988)の中心にあるのは職場ではなく、田舎の家と森だ。画面を満たすのは子どもの遊びと、雨のバス停で父を待つ時間である。
北野武——静けさのあとに、暴力が一瞬で来る
お笑いではビートたけし、映画監督としては北野武の名を使う。監督作でまず目につくのは、静かな時間の長さと、その途中へ突然差し込まれる暴力である。暴力は予告なしの一瞬で終わり、その瞬間自体はしばしば画面に映らない。
『ソナチネ』(1993)では、抗争から逃れたやくざたちが沖縄の浜辺で紙相撲をしたり、花火で遊んだりする場面が延々と続く。物語はほとんど進まない。ところがその静けさの中に、銃声が予告なしに差し込まれる。構えて待つ時間を与えないから、観ているこちらの身体がびくっとする。カメラは固定気味の長いショットが多く、人物は正面を向いて無表情、しばしばサングラスで目が隠れている。表情が読めないから沈黙の意味を観客が考えることになり、青みがかった画面の色は「キタノブルー」と呼ばれてきた。暴力の見せ方にも省略の癖がある。殴る・撃つの動作を丁寧に見せるのではなく、カットが替わるともう結果になっている——瞬間を編集で飛ばすのだ。本人は後年、『ソナチネ』を「狭い空間で自分の精神と一人で闘っている暴力の世界」と振り返っている。
『HANA-BI』(1998)は、病の妻を持つ刑事が静かな旅の果てに追い詰められていく話で、同じ静止と暴力の呼吸を夫婦の旅路でやっている。1997年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、「世界のキタノ」という呼び名を定着させた。
ただし、静かな映画ばかりの人ではない。時代劇『座頭市』(2003)は殺陣のリズムで見せる娯楽作で、農作業の音が音楽になり、最後は出演者総出のタップダンスで幕を閉じる。『アウトレイジ』(2010)以降は全員悪人の抗争劇を怒鳴り合いのテンポで転がした。本人いわく、組織の複雑な関係は「説明しないと話が通じないから」セリフが増え、やってみたら「言葉ってけっこう面白いな」と気づいた——大勢がひとりを取り囲んで責める場面を「完全に漫才の間」と自分で言う。静けさの人と饒舌の人が、同じ監督の中に同居している。

是枝裕和——食卓の観察で、家族が見えてくる
是枝裕和はテレビのドキュメンタリー出身で、人物を観察する姿勢は劇映画にも見える。人物は台詞で自分の立場を説明しない。かわりに、誰がどこに座り、何を食べているかが映る。事件よりも食卓を観察して、家族の形を浮かび上がらせる監督だ。
『万引き家族』(2018)には、六人が狭い座卓を囲む場面が繰り返し出てくる。誰が奥に座り、誰が入口側で立ったまま食べるか。説明がないのに、座り方から力関係と親密さが見えてくる。このフレーミングは設計されたもので、是枝は後に、六人全員が同じ画面に収まるのは縁側で花火を見上げる一場面だけだと明かしている——ばらばらに撮られてきた「家族」が一度だけ一枚に収まる、その一度のための配置である。前半は笑い声の多い暮らしが続き、後半、その暮らしが外から見つかると場面は取調室に変わり、六人が互いをどう呼んでいたかが書類を作る側の言葉で問い直されていく。この映画はカンヌ国際映画祭の最高賞パルム・ドールを受賞した。
自然さは、偶然ではなく方法から来ている。『誰も知らない』(2004)は、母に置き去りにされた四人きょうだいを季節をまたいで約1年かけて撮り、画面の中で子どもたちの髪が伸び、顔つきが変わっていく。子役には台本を渡さず、その場で口伝えで演出した。主演の柳楽優弥は14歳でカンヌの男優賞を史上最年少受賞している。大人の俳優に対しても、すべてを事前に決めるより「現場のお芝居から出来上がっていくのが一番うれしい」と語る人で、俳優を選ぶ基準も、間合いの取り方や掛け合いのうまさに向く。
家族もの一辺倒ではない。『怪物』(2023)の脚本は坂元裕二が書いた。是枝が自身で脚本を書いていない長編を監督するのは、デビュー作『幻の光』(1995)以来のことで、同じ出来事を三つの視点から語り直す構成劇に取り組んだ——その脚本はカンヌで脚本賞を取っている。韓国で撮った『ベイビー・ブローカー』、フランスで撮った『真実』と、国と言語を替えても、食卓と家族の観察は続いている。

濱口竜介——長い会話の途中で、別の感情が顔を出す
『ハッピーアワー』から『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』まで、濱口竜介の代表作では人がとにかく長く話す。しかも、離れにくい場所で話す。『ドライブ・マイ・カー』(2021)の中心は赤いサーブの車内で、演出家の家福と、専属ドライバーのみさきは、走る車の中だから途中で席を立てない。濱口は車内の席順そのものを演出として使う人で、この映画について「座った席から関係が生まれていきます」と語っている。後部座席の客と運転手として始まった二人の距離は、座る場所が変わるにつれて縮まっていく。
長い会話の何が面白いのか。話しているうちに、最初に話していたこととは違う感情が表に出てくるのだ。家福が車内で語る亡き妻の思い出は、続けるうちに、隠してきた事実と、見ないふりをしてきた感情の告白に変わっていく。オムニバスの『偶然と想像』(2021)はこの仕掛けを3話で反復する——たとえば第1話では、タクシーの中で友人の新しい恋人の話を聞いていた女が、話が進むほどに、それが自分の元恋人だと気づいていく。偶然や言い間違い、隠していた事実によって、場面の意味が会話の途中で変わる。この監督の「事件」は、爆発ではなく発話で起きる。
その瞬間を生むために、変わった稽古をする。台本を、感情を付けずに、平坦なまま何度も読み合わせるのだ。ジャン・ルノワールに由来する「イタリア式本読み」と呼ばれる方法で、先に感情を決めてしまうと本番でその通りにしかできなくなる——逆に、言葉だけを身体に染み込ませておくと、カメラの前でその場に生まれた感情が乗る、という考え方である。『ドライブ・マイ・カー』では劇中の家福が同じ方法で多言語演劇の稽古をするので、この監督の方法論を画面の中で見ることができる。日本語、英語、韓国手話が入り交じる舞台稽古で、意味が分からなくても声の質感と身体から何かが伝わる瞬間が繰り返し映る。台詞のない沈黙や、聞いている側の顔にも同じ重さがある。
3時間近い会話劇と聞くと身構えるが、会話の意味が途中で何度も変わるため、長い場面でも次の言葉を追わせる緊張が切れにくい。『ハッピーアワー』(2015)は演技経験のない4人を主演にした5時間17分、『寝ても覚めても』(2018)は消えた恋人と同じ顔の別人が現れる話で、ここでも偶然が物語を折り曲げる。一方で『悪は存在しない』(2023)は、台詞の少ない時間と森の音が長く続く作品だ。音楽家・石橋英子との共作から出発した一本で、会話中心ではない側の濱口もいる。『ドライブ・マイ・カー』は米アカデミー賞国際長編映画賞を受賞し、新作『急に具合が悪くなる』は第1回で扱った。より詳しくは補足記事がある。

新海誠——なんでもない風景を、光で塗り直す
新海誠は、経歴からして他の6人と違う。ゲーム会社出身で、初期の代表作『ほしのこえ』(2002)は25分のアニメをほぼ一人で作った。そこから20年で、日本でいちばん客を集めるアニメ監督の一人になった。
画面の特徴は、光である。『君の名は。』(2016)の彗星が割れる夕方の空、雨上がりの路面の反射、電車の窓に流れる街。描かれるのは名所ではなく、駅の改札、コンビニ、自動販売機、電線——なんでもない日常の風景だ。本人がその理由を語っている。「なんでもないような生活の片隅のようなものを美しいものとして日常をすくい取って映像の中で描いて、この世界を肯定したい」。つまりこの光は、風景の記録ではなく、日常の側を肯定するための脚色である。『すずめの戸締まり』(2022)では同じ筆致が廃墟に向かい、壊れた自動販売機や崩れた壁が、細部まで触れそうな質感で描かれた。
そして近年の3作では、きれいな光の下でかなり重いものを運んでいる。『君の名は。』は彗星災害、『天気の子』(2019)は止まらない雨、『すずめの戸締まり』は震災の記憶を正面から扱う。3作はいずれも興行収入100億円を超える規模で観られたが、画面の主役は災害の派手さではない。きれいな空の下に、失ったものの置き場所を探す時間が流れている。
例外は初期にある。『秒速5センチメートル』(2007)は、間に合わなかった恋を桜と雪の距離感だけで描く63分の小品で、大きな災害も救済も起きない。すれ違いをすれ違いのまま終える作りで、ここだけ観ると、大作の新海作品とは印象が大きく変わる。

山崎貴——存在しない風景を、VFXで実在させる
山崎貴はVFX(視覚効果)会社・白組の出身で、映像を合成で作る技術者から監督になった人である。撮る題材は人情劇から怪獣映画まで幅広いが、代表作に共通する仕事の芯は、こう言い表せる。もう存在しない風景を、合成で実在させることだ。
『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005)は昭和33年の東京の下町を舞台にした人情劇だが、この映画の主役級はVFXである。建設中の東京タワー、都電が走る夕暮れの通り、上野駅——もう存在しない風景が合成でまるごと再現された。『ゴジラ-1.0』(2023)では、戦後まもない銀座が作られ、そして壊される。山崎は監督・脚本に加えてVFXスーパーバイザーも兼任した。
作り方に特徴がある。VFXを担った白組のチームは35人ほどの少数精鋭で、物量よりも、監督が現場で直接指示できる小回りと、アナログの工夫で画面を作る。戦闘機を人力で揺らし、水しぶきをクレーンからバケツでかけ、その実写の手応えにデジタルを重ねていく。だからゴジラの怖さは、地面に近い人の目の高さから見上げる構図と、足元へ飛んでくる瓦礫、実写の重さでかかる水しぶきの怖さである。実景と合成のつなぎ目を感じさせないこの作り方のまま、『ゴジラ-1.0』は2024年の米アカデミー賞で視覚効果賞を受賞した。日本映画として史上初のVFX部門受賞である。
昭和の商店街の夕焼けと、銀座を踏み潰すゴジラ。題材は正反対でも「無い風景を実在させる」仕事は共通している。間には『永遠の0』の零戦もあれば、フルCGの『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』もあり、選ぶ題材の振れ幅そのものがこの人の履歴書になっている。

次回
第4回は海外編。スピルバーグ、キャメロン、タランティーノ、スコセッシ、ノーラン、ヴィルヌーヴの6人を、同じように作風から見ていく。