この連載の目次(全6回・完結)
- 01『急に具合が悪くなる』『箱の中の羊』『黒牢城』ほか——名前だけでは分からない新作映画6本
- 02Netflixで話題の映画5本——あらすじと、面白いポイント
- 03宮崎駿、黒澤明、北野武、是枝裕和、濱口竜介、新海誠、山崎貴——それぞれの映画は、何が違う?
- 04スピルバーグ、キャメロン、タランティーノ、スコセッシ、ノーラン、ヴィルヌーヴ——作風はどう違う?いまここ
- 05IMAXとは何か——通常上映、IMAX、Dolby Cinemaは何が違う?
- 06アカデミー賞と三大映画祭——何が違い、誰が選んでいる?
サメを見せずにサメ映画を撮った人。深海に一人で潜った人。長い雑談のあと、突然銃を抜く人。犯罪者の高揚と転落を、動くカメラで追った人。時間をシャッフルする人。砂漠に人を米粒のように置く人。海外映画の話題で繰り返し名前が出る6人について、名前を聞いたときにどんな画面を思い浮かべればいいのかが分かるところまで紹介する。
| 監督 | 代表作2本 | 作風・特徴 |
|---|---|---|
| スピルバーグ | ジョーズ/ジュラシック・パーク | 怖いものを見せる前に予感させ、観客の視線を1カットで誘導する |
| キャメロン | ターミネーター2/アバター | 撮りたい画面のために技術チームと撮影方法を開発し、水と身体に注ぎ込む |
| タランティーノ | パルプ・フィクション/キル・ビル | 本筋と関係ない雑談が続き、暴力が突然噴き出す。時系列は組み替える |
| スコセッシ | タクシードライバー/グッドフェローズ | 動くカメラ・ナレーション・既成曲で、高揚から破滅までを内側から見せる |
| ノーラン | ダンケルク/オッペンハイマー | 長さの違う時間を並走させて合流させる。物理の限界までフィルムで撮る |
| ヴィルヌーヴ | メッセージ/DUNE | 巨大な空間に小さな人を置き、低い音と静けさで圧迫感を作る |
詳細は各節で。特徴に当てはまらない作品もあり、それも各節で触れる。ノーランの新作『オデュッセイア』は2026年9月11日に日本公開。
スティーヴン・スピルバーグ——見せる前に、予感させる
スピルバーグの怖がらせ方・驚かせ方には型がある。怖いもの・すごいものを直接見せる前に、まず予感させるのだ。
原点は『ジョーズ』(1975)、27歳のときの仕事である。海水浴場をサメが襲う話なのに、前半はサメの姿をほとんど見せない。水面下からの視点と音楽だけで恐怖を作る。実はこれ、撮影用の機械ザメが故障続きで動かせなかったための苦肉の策だった。本人が後年、ラジオ番組で語っている——サメが壊れ続けたおかげで、サメを見せずにサスペンスと恐怖を作る方法を考えざるを得なかった、何も見せずに怖がらせたヒッチコックが途方もない導きだった、壊れてくれたのは自分にも観客にも幸運だった、と。故障から生まれた「見せない前半」は映画史に残り、この映画は、夏に大作を公開する興行を代表する成功例になった。
予感の設計はその後の代表作でも続く。『ジュラシック・パーク』(1993)では、コップの水面が振動で揺れて恐竜の接近を知らせ、『E.T.』(1982)では宇宙人の全身より先に、動く植物と光る指が映る。そしてこの設計を支えているのが、気づかれないカメラの動きだ。スピルバーグは実は長回しの名手で、1つのカットの中でカメラと人物の位置を少しずつ変え、引きの画から寄りの画までを編集なしでつないでいく。観客は切れ目を意識しないまま、見るべきものへ順番に視線を運ばれる。派手な長回しとして目立たせないところまで含めて設計されている。
「見せない人」で終わらないのが、この監督の振れ幅である。恐竜と同じ1993年に撮った『シンドラーのリスト』は、ホロコーストから1100人を救った実業家の実話を白黒の3時間15分で描き、ここでは残虐の場面から目を逸らさない。白黒の中で一人の少女のコートだけが赤く塗られる。『プライベート・ライアン』(1998)の冒頭25分でも、上陸戦を手持ちカメラの至近距離で直視した。『ジュラシック・パーク』では水面の揺れで予感させ、『シンドラーのリスト』では直視する——この2本を、同じ年に撮っている。

ジェームズ・キャメロン——撮りたい画面に合わせて、技術を組み立てる
キャメロンの映画作りは順番が変わっている。撮りたい画面が先にあり、それを撮る技術が存在しなければ、技術チームと一緒に機材や撮影方法を作るところから始めるのだ。
『ターミネーター2』(1991)の液体金属T-1000は、床から盛り上がって人の形になる。当時のCGでは前例のない画面である。実物の特殊効果とCGを一つの場面で組み合わせ、液体金属が人の姿へ変わる映像を作った。『アバター』(2009)では、俳優の表情をそのままCGキャラクターへ移すキャプチャー技術を、チームとともに開発している。技術デモで終わらないのは、見せ場の組み立てが意外なほど古典的だからだ。編集は奇をてらわず、どこで何が起きているかを見失わせないまま、身体がぶつかり水が押し寄せるアクションを積んでいく。
もう一つ、この人を語るなら水である。本人が「海のことならよく知っているし、海を愛している」と言い、『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』(2022)では俳優にフリーダイビングの訓練をさせ、実際に水中で演技をキャプチャーした。2012年には自ら共同設計した潜水艇で、世界最深部のマリアナ海溝チャレンジャー海淵まで単独で潜っている。深海探検と映画作りは、小さなチームで難しいことを協調してやり遂げる点で同じだ——というのが本人の弁である。
技術の人という説明だけでは足りない作品もある。『タイタニック』(1997)では、実物大に近い船のセットが実際に傾き、通路に水が押し寄せる。その物理的な実感が、ジャックとローズの恋を引き裂く力として画面に働く。ここでは技術が前へ出ず、沈んでいく一晩を本物にするために使われている。

クエンティン・タランティーノ——雑談が続き、暴力が噴き出す
レンタルビデオ店の店員から映画監督になった人である。店で浴びるように観た映画の記憶が、のちの作品に引用として流れ込んでいく。
デビュー作『レザボア・ドッグス』(1992)は、強盗の話なのに、冒頭は黒スーツの男たちがダイナーでマドンナの曲の解釈とチップ論を延々と喋る場面から始まる。本筋と関係ない雑談が、なぜか一番面白い。これは偶然ではなく方法で、本人は日常のなんでもない会話こそが人物を作る、と早くから語っている——『パルプ・フィクション』(1994)の殺し屋二人は、仕事の直前に「パリのマクドナルドではクォーターパウンダーを何と呼ぶか」を議論する。通勤途中の世間話のような口調で人殺しに向かう、その落差が人物の輪郭になる。そして雑談で緩んだところへ、暴力が突然噴き出す。本人の言い方を借りれば、暴力は会話に忍び寄ってくる、もう一人の登場人物のようなものだ。
構成にも癖がある。『パルプ・フィクション』は複数の犯罪者の話を時系列をシャッフルして並べた。物語の4分の3は素直に語ったほうが効くが、残り4分の1は順番を変えたほうが響く、小説が昔からやってきた自由を映画もやっていい——というのが本人の理屈である。この映画はカンヌの最高賞パルム・ドールを取った。
『キル・ビル Vol.1』(2003)では、復讐する花嫁が日本刀を持って東京へ来る。青葉屋での大立ち回り、深作欣二ら日本映画への敬意の引用——タランティーノが浴びてきた映画の記憶が、雑談ではなく立ち回りの振り付けとして画面に出てくる一本だ。一方で『ジャッキー・ブラウン』(1997)は、中年の客室乗務員を主人公にした抑制的な犯罪劇で、雑談と流血の人という説明から一番遠いところにある。

マーティン・スコセッシ——動くカメラと音楽で、破滅まで運ぶ
ニューヨークのリトル・イタリー育ちで、少年期の逃げ場は映画館と教会だったと語られる人である。撮ってきた中心はアメリカの犯罪と欲望で、作風は、動くカメラとナレーションと既成曲で、人物の高揚を観客に体感させてから、破滅まで一緒に運ぶ——という言い方ができる。
『グッドフェローズ』(1990)の有名な場面がその見本だ。主人公が恋人を連れてナイトクラブへ入る長回し。裏口から厨房を抜け、通路を進み、フロアの特等席に案内されるまでをカメラが一度も切らずに追う。犯罪組織の内側にいることの気持ちよさが、説明ゼロで、カメラの動きだけで伝わる。実はこの経路は、店の正面から撮影する許可が取れなかったための代替案で、制約が映画史に残る1カットを生んだ。ここに主人公自身の語り(ナレーション)と時代のヒット曲がかぶさり、観客は犯罪者の人生を内側の視点で走らされる。前半で高揚を体感させられているから、後半の転落が他人事にならない。
この疾走感は、編集で作られている。50年来のコンビである編集者テルマ・スクーンメイカーとの仕事は、なめらかさより勢いを優先し、あえて引っかかりを残すカットで荒々しさと現実味を足す。『タクシードライバー』(1976・カンヌ最高賞)では夜のニューヨークを流すタクシーの視点が、孤独な男の内面そのものになった。
ただし、全部が同じ温度ではない。『ミーン・ストリート』や『沈黙 -サイレンス-』(2016)では、イタリア系カトリックの感覚——罪と赦し——が前面に出る。一方『グッドフェローズ』が追うのは、罪を悔いる人物というより、犯罪生活に酔い、最後に転落していく人物だ。『沈黙』は遠藤周作の小説を28年かけて映画化した、江戸時代の隠れキリシタンの話である。動くカメラと音楽の人が、静けさと信仰の映画を撮る。犯罪映画の巨匠という呼び名の外側に、この一本がある。

クリストファー・ノーラン——時間を並べ替え、同時に走らせる
経歴が変わっていて、大学の専攻は英文学。映画は独学で、自主制作の長編から今の地位まで登った。作風の中心は時間の扱いである。出来事を起きた順に並べず、組み替え、長さの違う時間を同時に走らせる。
出世作『メメント』(2000)は、新しい記憶を長く保てない男の話を、観客が見る順序を組み替えて構成し、観る側にも主人公と同じ混乱を体験させた。『インセプション』(2010)は夢の中の夢へ潜るほど時間の進みが遅くなる設定で、階層ごとに速度の違う時間が同時進行する。『ダンケルク』(2017)は戦場からの撤退を、陸の1週間・海の1日・空の1時間という長さの違う3つの時間で並行して見せ、最後に合流させる。別々の場所の緊張を交互に切り替えながら加速させていくから、クライマックスでは全部が同時に押し寄せる。
もう一つの柱が、物理的な実物へのこだわりだ。『ダークナイト』以降、ノーランはIMAXフィルムカメラを長編劇映画で大規模に使ってきた。爆発やセットも、可能な限り実写で撮る。『オッペンハイマー』(2023)——原爆開発者の伝記で米アカデミー賞作品賞・監督賞——では、核実験の場面で閃光をまず見せ、音を遅らせて後から轟かせた。光と音が届く速さの差を編集に持ち込んで、距離と衝撃を体感させる設計である。この映画のIMAXフィルムの上映プリントは長さ約18km・重さ約270kgに達し、本人いわく映写機が物理的に抱えられる「外側の限界」だった。新作『オデュッセイア』は映画史上初めて全編をIMAXフィルムカメラで撮影した作品で、日本公開は2026年9月11日。上映方式の違いは第5回で扱う。
時間の作家と呼ばれがちだが、時間をいじらない大作もある。『ダークナイト』(2008)はほぼ時系列どおりに進む犯罪劇で、仕掛けの中心は構成ではなくジョーカーという人物の不気味さだった。題材によって道具を持ち替えている。
ドゥニ・ヴィルヌーヴ——巨大な空間と静けさで、圧を作る
カナダ出身の監督である。画面の作り方に、はっきりした署名がある。巨大なものの前に、小さな人を置くのだ。『DUNE/デューン 砂の惑星』2部作(2021・2024)では、地平線まで続く砂漠や巨大構造物を空撮でとらえ、人物は米粒のようなスケールで配置される。『ブレードランナー 2049』(2017)の廃墟都市でも同じで、人間の小ささがそのまま世界の圧になる。
その圧を完成させるのが音だ。DUNEの音響チームは、電子的なSF音ではなく、現実の砂や風から作った生々しい音で砂漠の惑星を鳴らし、身体に響く重低音と、音を思い切って引き算した静寂とを行き来させた。大きな音で驚かすのではなく、静けさで待たせてから低音で押してくる。重低音は座席まで響く一方、音を引いた瞬間には、次に何が来るかを待つ緊張が残る。緊張の作り方も同じで、麻薬戦争もの『ボーダーライン』(2015)の国境検問の場面——渋滞で止まった車列のどこから撃たれるか分からない数分間——は、爆発ではなく静けさが緊張を張り詰めさせていた。
ところが『メッセージ』(2016)は、同じSFでも作りがまるで違う。宇宙船は来るが、戦いは起きない。巨大な宇宙船は画面に映るものの、物語の重心は、言語学者が異星人の文字——墨の輪のような記号——を一つずつ読み解いていく時間にある。室内での会話と解析作業が多い、静かなSFだ。初期には『Enemy』(2013)のような小規模な心理スリラーもあり、スケールだけの監督ではない。

次回
ノーランの節で「上映方式で体験が変わる」と書いた。第5回では、その中身に入る。IMAXとは結局何なのか、通常上映と何が違うのか、追加料金を払う価値はいつあるのか——9月の『オデュッセイア』の前に整理しておく。